題名:赤い十字章
副題:画家ヴェラスケスとその弟子パレハ
著者:デ・トレビノ
訳者:定松正
出版:さ・え・ら書房 1993年
イタリア好きや食通の人はこの人を、と言うかこの絵をどこかで見ていないでしょうか。バルサミコ酢って日本では言われているバルサミーコの瓶に付いています。これは1638年にマドリッドを訪れたフランチェスコ・デステ(ディ・エステ)公爵をヴェラスケスが描いたもの。ヴェラスケスは生涯のほとんどを宮廷画家として過ごし、イタリア出張以外ほぼマドリッドから出ませんでした。なので現在も、美術史を通じて最も有名な画家にしては作品が世界中に散らばっていない画家です。1843年にはこの絵の人物が住んでいたモデナ(イタリア、エミリアロマーニャ州)のエステ画廊に買い取られ、今もそこにあります。
https://www.gallerie-estensi.beniculturali.it/scopri/
博物館のYouTubeです。「エステ家とルネサンス」というテーマで4部構成になっていて、この作品は第二部と最後に登場します。イタリア語で英語字幕付き。モデナもフェッラーラも大好きな街で、見ていると行きたくてたまらなくなります。コロナが開けたら、ウルトラ貧乏にもかかわらずエミリアロマーニャの旅をしようかとか、考え出しています❣️
さて本題の本は、そのヴェラスケスの最高傑作と言われる「ラス・メニーナス」に描かれた画家の自画像、の胸の上の十字章を誰が描いたのか?という伝説が元になってできたもの。画家の奴隷だったファン・デ・パレハ(本の中ではひたすらファニコという名で登場)の伝記物語。一昔前の翻訳という印象を受けますが、児童書なので誰でも簡単に読めるし、物語としては大変読みやすく感動的な良いお話ですから、一人でも多くの人に読んでほしいです。大人なら一、二日で読める内容です。
絵をあまり知らない人は多分このブログを読んでくれないと思うから、わざわざ説明するまでもないかもしれませんが、現在「ラス・メニーナス」という名で知られる下の作品は西洋美術史上、異常なくらい評価の高い作品です。ヴェラスケス晩年の巨大油彩画で、バロックの天才画家ルーカ・ジョルダーノが「絵画の神学」と呼んだのは有名な話ですが、筆捌きから印象派を用意したと言われたり、とにかく革命的な作品という定評です。この作品については、いくらでも書いたものがあるので色々読んでください。
問題は、この絵の左に描かれたヴェラスケスの自画像にある、当時のスペイン王国で最も栄誉あるサン・ティアゴ騎士団の記章です。王命で彼が騎士になれたのは1659年で死の前年ですが、作品自体は1656年に描かれたので、赤い十字章は後から加えられたというのは衆目の一致するところです。ところが画家自身が描いたのか、死後彼を尊敬する何者かによって加えられたのかというのが見解の相違で、かつては他者説が有力でした。
このヴェラスケスの解説Wikiでは画家自身説で、新しい研究ではこっちが優勢です。「赤い十字章」という本の題名とイラストからもわかるように、この物語はそこがクライマックスなのですが、もしヴェラスケス自身が描いていたら話はどーでも良くなってしまう程です。でもとにかく良いお話なので絶対お勧めはします。
この物語を読み終わると、ヴェラスケスはこんなに才能があって特別な人なのに、家族愛、いや人類愛に溢れたなんて善人で素晴らしい人なんだろう!!!と思ってしまいます。実際にはイタリアで子供を産ませているし、非常に上昇志向が強い人で騎士団員になりたくてたまらないのに、父方がポルトガル移民のコンヴェルソ(キリスト教徒に改宗した者)だったため騎士になれなかったのを、彼の死が近いと思ったのか、ヴェラスケスを愛してやまない王が特別に騎士にしたらしいですし、上の自画像からも、全く欲の無い優しい善人という印象は受けないのですが・・・。ヴェラスケスが奴隷であったパレハを解放したのは史実で、その後彼は画家として作品を残しています。レオナルドの弟子たちと違って一流の作品です。現在はプラドやエルミタージュで観る事ができます。
スペインバロックの画家の中でも立派な画家と言えるでしょう。恥ずかしながら私は彼を知りませんでした。告白します。ヴェラスケスも言っているように「美を描きたくはない。醜を描きたいのだ」というようなスペイン絵画はあまり得意ではないので。
でもヴェラスケスは奴隷を解放するとき、4年間は彼の元に止まって働くとか色々条件をつけています。これだけ描けるんだから一番弟子だったのでしょう。弟子といえば3年ほどですが、ムリリョもいました。私なんかスペイン絵画で一番に浮かぶのがムリリョです。ひたすら愛らしいマリアと天使たちの単純な構図と色彩、素直この上ない素朴さが特徴です。
物語にはムリリョも出てきます。そちらは想像通りの素朴ないい奴という描かれ方。もう一人物語で重要なのが、ヴェラスケスを大変気に入っていたスペイン国王フェリペ四世です。これは何枚もあるフェリペ四世の初期の立像です。飛び抜けて厳格で知られたスペイン王室らしく、真っ黒で地味な衣装をつけた肖像画は非常に印象的。モデル自身が特徴的なので、どんな画家が描いても印象的な作品になったのか知りたいところではありますが、素晴らしい美術作品です。私は、好みではありませんが、ヴェラスケスが超一流の画家だというのには全く異議を唱えるつもりはありません。
物語では、もうこの王様も大好きになってしまいそうです。フェリペ四世は、美術愛好家にとっては感謝の対象ですが、国王としては大した才能はなかったようで、スペインや世界史にほとんどその名は出てきません。かつての栄光から転げ落ちるように衰退してゆくスペインを横目に、女性と狩が大好きなよくいるダメ貴族なのですが・・。国王にとって重要な政治家としての資質という意味では、教皇イノケンティウス十世は大政治家でした。全世界のキリスト教世界と、イタリアの中の教皇国家という国を同時に治めるのは大変な仕事です。顔立ちからフェリペと違い、厳しく頭脳明晰な人物像が浮かび上がるようです。ヴェラスケスはモデルの内面を描くことに非常に力を注いだ、最初の画家の一人です。
この肖像画は肖像画の全歴史の中でも絶賛される作品で、現代美術の革命家フランシス・ベイコンが幾つもヴァージョン違いで作品を作っています。ベイコンは、私にとっても、20世紀最大の画家の一人です。
最後に、この物語は全てヴェラスケスの奴隷だったフェニコが語るのですが、その彼の肖像画で締めたいと思います。ヴェラスケスは宮廷の小人や道化師を冷徹な目(真実を見る)で描いたことでもよく知られています。普通は描かれることのない奴隷をモデルに立派な肖像画を制作したヴェラスケスは、やはり只者ではなかったと思うし、この絵は、平気で楽しみの為に奴隷を殺すような人々が珍しくない時代に、ヴェラスケスのヒューマニティを現した素晴らしい作品ではないでしょうか。ニューヨーク、メトロポリタン美術館で、ファニコに会えます。
古い本ですいません。コロナで時間ができたので読みました。図書館やアマゾンなどで探してください。