画家:イル・ソドマ Giovanni Antonio Bazzi
年代:1506〜年
場所:モンテ・オリヴェート・マッジョーレ大修道院回廊、シエナ近郊
技法:フレスコ
自画像というのは画家や彫刻家が自らを表現した作品で、ルネサンス以降頻繁にみられるようになります。でも古代や中世には自画像というジャンルは存在しませんでした。芸術という概念も存在しなかったから「個人」と「芸術」が社会の中で地位を獲得してゆくルネサンスの特徴と言ってもいいかもしれません。ソドマは後期ルネサンスの画家です。自画像は自己顕示欲の強い画家の作品が少なくないのですが、ソドマのこの自画像ほど印象的なものはありません。今日はそのお話。
まずそのニックネームですが、多少なりとも英語や西洋文化に親しんだ者にはソドムを連想させます。ランダムハウス英語辞典でSodomを引くと、1)男色など住民の邪悪さのためにGomorraゴモラと共に天上から火で滅ぼされた古代都市。(聖書、創世記18−19)The apple of Sodomソドムのリンゴ:見た目は美しいが手にするとたちまち灰と化す。2)同性愛、男色の象徴。3)背徳と罪悪のはびこる場所、邪悪の地、犯罪都市。などと書かれています。散々です。様々な差別を無くそうという現代の風潮でやっと使われなくなってきた表現ですが昔の文章には普通に出てきます。
現在ソドマの最も有名な作品は聖セバスティアヌスを描いたもので、こぼれ落ちる涙、よじらせた裸体など怪しい雰囲気で、三島由紀夫も大好きだった作品です。美術史の父ヴァザーリは「芸術家列伝」の後半にソドマを登場させますが、大した酷い書き様です。ヴァザーリの「芸術家列伝」は美術史に関心のある者ならば誰もが知る非常に重要な作品ですが、歴史的史料としては誤解や単純な間違いも多く指摘されています。が当時の考え方を知るには貴重な史料です。そのヴァザーリもソドマという名前をランダムハウスのソドムと同じ意味で取り、ヒゲも生えない若い衆に取り囲まれてみだらな暮らしぶりをしているダメ人間だから、最後には落ちぶれ切って死んだ、というように彼を紹介しています。
ところが、北イタリアのヴェルチェッリで撮ったこの写真は、彼を地元出身の最大の画家として記念しています。いくら昔の事だからといって、そんなとんでもない人の記念碑を公の予算で掲げるでしょうか。
美術に限らないとは思いますが、歴史の中で人の評価は変わります。今では信じられない事ですがあのボッティチェッリだって忘れ去られた時期があったし、カラヴァッジョが評価される様になるのは最近です。フェルメールなんて今の自分の人気を見たらどんなに驚くかと思います。どうせなら生きていた時に人気者になりたかったはず。可哀想なゴッホなんて一枚も売れなかった。あらゆる時代を通じ不動の大芸術家とされてきたのはミケランジェロだけと言ってもいいかもしれません。そんな中でソドマ程評価が激しく変動した画家も珍しいのです。一時期はルネサンスの頂点とされ幾多の論文が発表されたかと思うと、取るに足らない画家プラス人格破綻者としてめちゃくちゃに言われました。どうしてそんなことになったのでしょう。
バチカンで描き教皇レオ十世に騎士に叙せられ、ヨーロッパ最大の銀行家キージの屋敷を飾り、神聖ローマ皇帝を感心させ、当代随一の文化人と親しく付き合い、王侯貴族に混ざって何度もパリオ(競馬)で自分の馬を優勝させる様な成功した人生でした。シエナ最大の画家としてフレスコ 、油彩、彫刻も盛んに制作しました。
ヴァチカンの「ラッファエッロの間」として知られる天井は、元はソドマとペルジーノが描いていました。両方とも消してラッファエッロに描き直せと恐ろしい教皇ユリウス二世は命じたのに、ラッファエッロは二人の作品を残しました。流石社交の達人です。写真の天井は人物部分のみラッファエッロが手直ししたと言われていますが、素晴らしい装飾部分はソドマの才能が発揮されたもので、4つある「ラッファエッロの間」の中でも最も美しいものです。ラッファエッロは彼らを尊重しています。その証拠に西洋美術史上名高い「アテネの学童」の右端で、ラッファエッロの自画像の手前に居るのはソドマともペルジーノとも言われています。ペルジーノは1450年生まれで1511年までかかったこのフレスコの時は60才頃なので40才ほどのソドマと考えるのが妥当でしょう。それにペルジーノは地味で真面目な人柄ですがこのニヤけた感じはソドマの人柄にぴったりです。衣装も派手な珍しい色だったのでフレスコ ・ア・セッコで描いたため剥落しているのかもしれません。
彼の本名はジョヴァンニ・アントニオ・バッツィ、1477年に靴屋の息子としてヴェルチェッリに生まれました。その後シエナが第二の故郷になり、当時の画家としては十分に成功しました。ラッファエッロの空前絶後の成功には遠く及びませんが、靴屋の息子から騎士になったのです。得意満面な彼は自画像をいくつも残しています。中でも最も有名なのがトップのフレスコ画。これは当時非常に厳しい修行で尊敬を集めた修道院の回廊に描かれたものです。バチカンに呼ばれる前の話です。
回廊には西洋修道制の父聖ベネディクトゥスの物語が描かれています。アーチ毎に一場面を、ほぼ中心にパースペクティブ、一点透視方の消失点が来るように描いています。消失点は理論上は存在しても目には見えず永遠に続くので、「アテネの学童」でも使われていますが「神」を象徴するものでもあります。その真下に自分が来るという大胆な構図がまずとんでもないものです。普通は聖母子とかイエスや聖人の場所ですから。ちなみに「アテネの学童」ではプラトンとアリストテレスがその座にいます。
場面左半分は聖人の物語で聖ベネディクトゥスは祈りのポーズをとっています。右半分はソドマの家族と仲間たちといわれ全く聖人伝に無関係なのです。フレスコが痛んで見難いですが、ソドマの足元には動物や鳥たち、彼の衣装はこの修道院に身を捧げたミラノの貴族が身につけていた大変豪華なもので、真っ赤なタイツ姿のソドマは、職人は身に付けることのない白い手袋で自分の取り巻きを紹介する様に、得意げにこちらを見ています。ヴァザーリは、ソドマは不精と怠慢のため壁に直に描く(下書きやスケッチもしない)程いい加減な奴だが、唯一気にかけていたことが派手派手しく着飾る事で、金地の織物や帽子に首飾りなど道化師の様だった、と書いています。彼はありとあらゆる珍しい動物を飼い彼の家はノアの方舟(世界中の動物を集めた)の様だったというのも証明できます。修道院の記録には彼の馬の薬代や犬猫の餌代なども記されているからです。この場面は誰が見てもソドマ自身が主役にしか見えません。
最後の晩餐のフレスコ は痛みが激しいのが残念ですが、一人こちらに座ったユダはソドマの自画像ではないかという人もいます。12弟子やイエスより目立ったであろうマッチョな魅力に溢れたユダです。比較的痛みの少ない下半身は、彼の力量が感じられる素晴らしい出来です。自分をユダに重ねるというのもソドマらしいと思わせる様なエピソードが、いくつか残っています。1531年、税金訴訟に対するソドマの市への手紙はそれこそ印象的。所々引用します。
「立派な皆様に明言いたします。・・ただ今8頭の馬を所有しており、それは雄山羊とよばれておりますが・・猿と九官鳥を飼っています。その九官鳥は言葉を喋り、檻の中にいる理論家の驢馬に言葉を教えるために飼っているのでございます。・・狂人を脅す梟、二羽の孔雀、・・・(延々と飼っている動物が続く)それに三頭の扱いにくい獣がおります。すなわち3人の女です。・・成長した子供が30人おります。閣下様方におかれましても、私が大変な重荷を負っている事は、お認めくださると思います。・・法令によりますと12人の子供を持っている者は、街へ税金を納めなくとも良いとの事です。それゆえ皆様の御健勝を祈って筆を置きます。さようなら。ソドマ・ソドマ本名 画家ソドマ」(「数奇な芸術家たち」366頁)
私は初めてこれを読んだ時何重にも驚きました。まず1531年の市民の手紙が残っている事。日本では政治の根幹に関わる資料もあっという間になくなるというのに。そして税金の訴訟が起きているというのに、皮肉と下品なギャグも含めたふざけた手紙が出せる心の余裕。周囲の目ばかり気にして、忖度を競い合っている、お上の言いなりの日本人には考えられないことではないでしょうか。
またユダは金庫番として腰にお金の入った袋を身に付けていますが、いい加減に仕事しているソドマを修道院長が嗜めると「私の絵筆はお金の音に合わせて踊りますから、もっとお支払いになる気さえおありでしたら、はるかに上手に描いて見せましょう」と言い、値上げに成功したら突如熱心に描き出した、とヴァザーリ。
こんな話が尽きないソドマなので、ヴァザーリを読んでいると楽しくて声を出して笑ってしまいます。彼によると、たまにソドマが素晴らしい作品を作ると「狂人の面倒をみたり、呑気者にも救いの手を差し伸べることもある・・幸運の女神」のおかげとなるのですから。ヴァザーリはレオナルドとミケランジェロを神の如きに描いて、彼らの亡骸からは芳香が漂ったとさえ書きます。ラッファエッロはそれ程でもなくデル・サルトには悪口、というのがよく知られたところですが、それはラッファエッロがフィレンツェの人間ではなく、デル・サルトに関しては彼の妻に意地悪されたという理由によるものです。ヴァザーリはソドマを知りませんでした。当初「芸術家列伝」はフィレンツェ人美術家だけを扱ったものでしたが、続編で他の地域も入れようとしたヴァザーリは情報屋を見つけます。シエナ美術に関してはモレッリという彫金師で、彼はドメニコ・ベッカフーミの大親友でした。10才ほど若いベッカフーミとソドマはシエナの美術界を二分するライバルでした。ヴァザーリのベッカフーミ伝には次のように書かれています。
「ジョヴァンニ・アントニオ(ソドマ)が野蛮でふしだらで風変わりで、また常にひげもまだ生えぬ若衆と付き合っていた故にソドマと渾名されたのに引き換え、ドメニコ(ベッカフーミ)はあらゆる点で品行方正で行儀よく、キリスト教徒にふさわしい生活を送り、ほとんどいつも一人でいた」と。
メディチ家のお抱え美術監督となったヴァザーリは生真面目な人でした。「芸術家列伝」の最初に必ずお説教を書くのですが、それはいかに努力と鍛錬を惜しまぬ人間が成功するかということです。社会的責任のある地位で巨大プロジェクトの総合監督として馬車馬の如く働いたヴァザーリは、気ままで冗談好きな遊び人が嫌いでした。彼はパリオ(競馬)でソドマの馬が勝った時、子供や若者がソドマ!ソドマ!と大声で叫ぶのを聞いて、品行方正な貴人達の間では「そんな下品な言葉を我が街フィレンツェで叫ぶとは、けしからん!」と問題になったと言っています。また、ソドマがフレスコ で修道士を愚弄するために、娼婦達の裸を描いたが、反対にあって後から服を描き足したと書いていますが、これは現在の調査で嘘だとわかっています。最初から裸ではなかったのです。
大体ソドマには30人も子供はいませんが、シエナで最大の旅館(王侯が宿泊した)の娘を妻にし二人子供もいました。すぐに死んでしまった男の子はアペッレ(古代ギリシャで最大の絵描き)という名前でした。娘は一番弟子と結婚しています。結局ソドマという名前は男色と退廃という意味ではなかったというのが、最近の研究です。Su'nduma!(ス・ンドゥーマ)というのが口癖でした。これは現在も使われる北部イタリアの方言でSu,andiamo!(ス・アンディァーモ)という意味です。レッツゴー「行くぞ!」「さ、始めようっ」そんな意味です。
ソドマは本当にソドミアン(男色家、退廃不道徳者)だったのでしょうか。ソドマ研究者の中にはそれを完全に否定する人がいますが、そうとも言えない気がします。結婚はすぐに破綻したと言う研究者もいますし、あちこちの街を回っていてあまり家にいなかっただろうとは思います。ソドマは間違いなく、当時の人々も勘違いする彼の渾名を気に入っていたし、彼が描く少年達は異常に派手な衣装をつけて色っぽかったりするのです。例にあげた少年は画面の前面で大変目立つ存在ですが、別にいなくても問題ないのです。彼を騎士にした教皇レオ十世の美少年趣味は有名でした。レオナルドが美少年愛者なのは確実だし、ミケランジェロだってウルトラ筋肉美の若い男の天使ばかり描いています。カラヴァッジョのように両刀だったのかもしれない。要するにルネサンスの権力者達には、そんなことはどうでも良いと思っている人たちが大勢いました。ルネサンス後期とはそう言う時代なのです。
ただヴァザーリが言うように「よれよれに老いぼれた一文無しの身で」死んだことが無かったのは確実です。妻に残された彼の財産目録は、それ以前の画家達と比較しかなりリッチだった証拠になっています。シエナ市庁舎のフレスコ は中世美術史上最も人気の高い作品です。あまりにも素晴らしいシモーネ・マルティーニの傭兵隊長の下に描かれたシエナの守護聖人達はソドマの作品です。中世愛好家からすると消されたフレスコ が見たかったと思ってしまいますが、これは彼のせいではありません。
非常に残念なことですが、シエナのピスピーニ門にはソドマのフレスコ があり、そこにはラッファエッロのより愛らしい天使達と彼の自画像が描かれていたそうです。ヴァザーリは自画像と共に「私が作った」と書いてあると言っています。これは古代ギリシャの職人達が使った手法ですが、エンツォ・カルリはそうではなく「作ってみろ」「お前もやってみろ(できないだろ)」と書いてあったのだと言います。ルネサンス愛好家には有名なエピソード、ドナテッロがブルネッレスキに言った言葉です。
美術に限らずスポーツでも科学などあらゆる分野で起っている現象ですが、私は極一部の決まった人ばかり有名になって、その人が最高峰のように扱われるのには反対です。世界には知られざる尊敬に値する人たちが沢山います。間違いなくソドマは尊敬に値する人で無かったに違いありませんが、 ほとんど完成した作品が無かったレオナルド・ダ・ヴィンチが美術界の最高峰のように扱われるのに疑問を感じます。ソドマはレオナルドの何倍も仕事をしたのに、努力もせずにのたれ死んだと書かれる所以は絶対にないはずです。