天使たちの西洋美術

美術、イタリア、読書を愛する西洋美術研究者SSの思ったこと

【映画】ラスト・ディール:美術商と名前を無くした肖像

春講座が始まって、ヨーロッパ各地の美術について調べる毎日です。中世やイタリア美術と違って、よく知らない作品や作家もいるので、調べまくりで、ますます目が悪くなりそう😭 めちゃくちゃ楽しいんだけど・・。

One last deal

各地の美術家を調べるうちに思い出した映画があります。北欧映画で、フィンランドヘルシンキが舞台。評価も高いけど、個人的にとても共感した良い映画です。いわゆる派手なアクションや馬鹿な痴話喧嘩の応酬と、モデルみたいな人が主人公の売れ線映画とは正反対の、地味だけど奥深い心に残る映画。演出も玄人好みって感じがしました。

美術商の室内

邦題:ラスト・ディール:美術商と名前をなくした肖像
制作:2018年、フィンランド

監督:クラウス・ハロ(すごく良い監督だと思う)

主演:ヘイッキ・ノウシアイネン(発音に自信ない)この人最高!監督の前作「ヤコブへの手紙」にも出ています。

オークションの場面

原題はフィンランド語で Tuntematon mestari(翻訳したら、不明なマスター、と出た)で、英語は One Last Deal です。「最後の取引の一枚(作品)」という意味でしょう。要するに、元は「肖像画の画家」に主眼があり、英語版では「作品」に移り、日本語では「取引」に移って、どんどん画家から離れていくのが分かります。日本人は、どうしてもキリスト教の知識がないし、よく美術を知らない人にはイリヤ・レーピンが大画家だということが分からないので、仕方ないのでしょうか?私には、題名は非常に重要に思えるし、邦題をつけても原題は必ず表記してほしいと思います。だって、この作品の解釈が変わってくるから。

問題の肖像画

主人公は閑古鳥の鳴く画廊の老人です。見た目は派手で成功しているオークションハウスで、ぞんざいに扱われている肖像画がとても気になった彼は、それについて調べ始めます。ついにそれがロシア最大の巨匠イリヤ・レーピンの作品に違いないと確信すると、オークションで競り落としてしまいます。お金は全然無いし、払えるのかと友人も心配するのに、生涯で最後の良い取引がしたい一心の彼は行動に出たのです。その時のドキドキする心臓の鼓動は、見ている者に聞こえてきそうだし、番号札を上げる震える手など、こっちまでハラハラしました。ある意味で映画の中で最も緊張する瞬間です。

孫と調査する

話の展開は見てほしいから書かないけれど、有名で成功した見た目の良いオークションハウスより、貧しい老人の方が絵に対する愛が大きく価値を判断できる事が分かります。でも、それでハッピーエンドかっていうと、そう単純にはいかないところが流石で、主人公の死ぬ場面の表現は完璧でした。主人公が老人だけだと悲しいばかりなんだけど、疎遠だった孫がバットマンのロビンみたいな役割で活躍するのがすごく嬉しい。

ヘルシンキの大学

個人的には、いつも有名画家の作品につく馬鹿げた値段と、それが真作か贋作かという判断基準のいい加減さに腹が立っているので、老人に自分を重ねてしまいます。有名だったり大手が正しいとは限らないことは、しょっちゅうある。それに大金を払う自称美術愛好家という者たちが、鑑賞眼を持ち合わせず、サインにすぐ騙されるのにも呆れているので、ほんと同感することだらけの映画でした。

背景に掛かっているクラムスコイのキリスト

題名のことで解釈が変わると書いたけれど、私はこの監督の深いキリスト教(正教)への関心から、絵にサインが無いのは「イコン」であるからで、イコンはお金で取引される絵画ではなく信仰の聖具だということに最大の意味があると思います。こうして正しいことが証明されずに死んだ老人に、イエス・キリストがダブって見えてくるのです。でもイエスの死が二千年経っても受け継がれたように、老人の思いは孫に受け継がれる。寂しいけれど、明るい気持ちになれる珍しい映画だと思いました。

西洋美術、イタリアの旅、読書が大好きな貴方へ、中世西洋美術研究者SSが思う事いろいろ