求めよ さらば与えられん
尋ねよ さらば見出さん
叩け さらば開かれん (マタイ第7章7節より)
去年ルッカで撮影した、マッテーオ・チヴィターリ作、救世主の大理石彫刻です。何度も撮影していますが、季節や時間、その時の私の心の状態で変化があります。
この写真は、ほぼコンピューターの修正なし(原寸はもっと大きい)ですが、悲しい現実の多くある世界において、未来への微かではあっても光を感じさせる雰囲気が伝わるのではないかと思い、年頭に持ってきました。
初期ルネサンスに生きた天才的な彫刻家の一人でフィレンツェでも修行しましたが、ほとんど故郷ルッカで仕事をしました。中世から近世へかけてヨーロッパで最も華やかだった都市を、さらに輝かせました。様々な素材で製作された聖像は、どれも大変感動的です。それはドナテッロの様な強烈な個性を放つ、力強い生命の躍動というより、繊細で今にも壊れてしまいそうな、それでいて五百年の歳月を生き続けている、ある種耐える力に対するものでしょうか。口をきっと結んだドナテッロ作と反対にマッテーオのイエスは僅かに口を開けています。
絵画作品を背景に持っていたため、背中が平らになっています。元のフレスコから引き離されて、いよいよ悲しさが募ります。このイエスは死を超えて復活した、勝利の頂点に立つ図像であるのに、なんとか両手を広げ、人間の悲惨を一身に受け止めているのです。
イエスの像は悲壮ですが、聖母子は心が和みます。何世紀ものチリや埃、風雨に晒され彩色は変化し痛んでいますが、それでも元の像の美しさが十分に伝わります。一部の成人男性だけが人間扱いされて来た歴史の中で、女子供は表現する価値がありませんでした。表現する価値が認められるには女神か聖女でなければなりません。中でも聖母子像が圧倒的に多く愛されたのは、幼児イエスの存在を抜きには考えられません。聖母子像に関しては孤高の天才彫刻家ドナテッロより、マッテーオ・チヴィターリに軍配をあげたいと思います。
いつの日か
人々の心に理解と寛容の精神が生まれ
世界に平和が訪れますように