愛という言葉は外来語です。
十四世期に愛染明王という言葉が文献に現れるそうですが、それは性欲という意味で使用されていたと幾つかの資料で読みました。現在は愛を、大変イトオシイと思う、とても大切に感じる、という意味で捉えていないでしょうか。日本語ではこれをカナシと言ったそうで「慈」「悲」という漢字は共に愛に近いものなのです。漢字とアジア史は強くないので、間違っていたら教えてください。
キリスト教の宣教師たちが日本にやってきた時、キリストの愛を伝える表現が存在せず「御大切」などと言っていたのは知られるところです。多分こちらの方が現在の愛に近いのではないでしょうか。歴史学に新たな視点を与えたフィリップ・アリエスは『アンシャン・レジューム期の子供と家族』という非常に有名な論文で、近代以前のヨーロッパには子供という概念が存在せず、子供服が無かったとか、死亡率が非常に高いため親は子供にたいして愛情を注がなかったと言っていますが、大変いとおしく、守りたいと思う気持ち、は世界中に、多分古代から存在したと私は思っています。ここにあげた写真は近代以前どころか皆中世のものですが、どれも子供に対する愛情が明確です。キリスト教美術史において、聖書での重要度が高くないにも関わらず聖母子像が圧倒的な数存在している事実が、その証拠でなくてなんでしょう。
写真には親子間以外の愛もあるのを見てください。最後は主人の亡骸を見つめる犬ですし、下図は聖なる存在であるマリアとイエスを愛する教会の擬人像が聖母の靴に口づけしています。宗教的な愛と言えます。
このように当然イタリア語にも様々な愛があります。
amore アモーレ
という言葉はどこかで聞いたことがあるでしょう。これは名詞で「愛」。ちなみに男性名詞です。どこか女性名詞のような気がしませんか?イタリア語では基本的に思想的な抽象名詞は男性名詞です。頭を使うのは男と決まっていたからです。言葉は非常に古いものですから、完膚無きまで男尊女卑です。これはどんな文法書にも書いてない私見です。そして現在は、献身的な気持ち、思いやり、憐憫、恋愛など全てひっくるめてこの言葉を使うことが可能です。日本語もそうですが、どんどん単語数が減ってきているのです。昔は書き言葉はごく少数のエリートのものだったので、言葉の数も内容も、表現もずっと多様でした。民主化と共に文化程度は低くなりますから、ある意味では自然な現象です。現在は、どこまでも低くならないように文化の底上げが求められています。これは民主主義の根幹に関わる大問題です。
amare アマーレ
こちらが動詞。動詞はラテン系の言語の場合(その他の多くの言語も同じですが)主語によって人称変化します。これは実に大切なことで、勉強したい人はまずこれを身につけねばなりません。勉強を始めて何年も経つのにまだ人称変化が身についていない人がいますが、考え方が間違っていると、私は思います。これは「誰が」「何を」「する」かという、根本的な文章の構造の第一歩だからです。日本語では主語が省かれることが多く、それは誰が言ったのか、誰の行動なのか分からないことが少なくありませんが、欧米語では許されないことです。それこそ自己責任、自治の概念に結びつくのです。
are系動詞の変化:amareの語尾areを切り落とし、人称により変化させる。
発音は最後に。
一人称(自分)
Io amo 私は愛する
noi amiamo 私たちは愛する
二人称(会話相手)
tu ami 君は愛する
voi amate あなたたちは愛する
三人称(目の前にいない人)
lui/lei ama 彼(彼女)は愛する
loro amano 彼らは愛する
動詞の語尾変化により主語が分かるので、強調しないときは主語を省くのが一般的です。
Maria ama Gesu` マリアはイエスを愛する
le madri amano i bambini 母は子供を愛する(複数で一般化)
Amiamo la pace 我々は平和を愛する(一般化の一種)
Amo le opere d'arte medievale 私は中世の美術作品が大好きです
知ってるよという人も、知らない単語で考えずに言えるところまで身につけて。初めての人は、うんざりするかもしれないけれど、できるようになった時の楽しさを想像して。それに私は歌うように覚えたから、辛く無かった。
amare amo ami ama amiamo amate amano
アマーレ、アーモ、アーミ、アーマ、アミャーモ、アマーテ、アーマノ🎶