天使たちの西洋美術

美術、イタリア、読書を愛する西洋美術研究者SSの思ったこと

【イタリア語】Tutti i Giorni❣️L'italiano:言葉は神か

In principio era il Verbo,
e il Verbo era presso Dio
e il Verbo era Dio.

dalla Bibbila testo ufficiale CEI,1988

 

In principio, c'era colui che e` "la Parola".
Egli era con Dio,
Egli era Dio.

dal Nuovo Testamento in lingua corrente, 2009

 

In the beginning the Word already existed.
The Word was with God,
and the Word was God.

NLT,2014

 

太初(はじめ)に言(ことば)あり、
言は神と共にあり、
言は神なりき。

(旧新約聖書1939年より)

 

初めにみ言葉があった。
み言葉は神と共にあった。
み言葉は神であった。
み言葉は初めに神と共にあった。

新約聖書フランシスコ聖書研究所2010年)

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Brindisi

いきなり難しいかもしれませんが、翻訳がいかに困難で、ある意味では不可能かという事を分かって欲しいから書いています。1単語に1日本語を充てて覚えることが、いかに良くないかという事を理解する必要があるのです。これはほんの一例に過ぎません。なによりも、このあまりにも名高い『ヨハネ福音書』の冒頭の言葉は本来ギリシャ語でロゴスという言葉です。それをラテン語Verbumに訳し全西欧に広がり、宗教改革イエズス会の世界への宣教活動により各国語に翻訳され、現在に至っているのだと認識する必要があります。

 

例として最初にイタリア語を二つ、現代英語版、日本語の訳も異なったものを載せました。イタリア語版は解説や資料付きのカトリック版と、ヴァルド派という中世に異端として大弾圧を受けた教会でいただいた大変珍しいものです。古くて硬い印象なのは、ギリシャ正教の日本語訳と同じ傾向です。御茶ノ水ニコライ堂で使っている聖書は、言葉は悪いですがぶっ飛んでいて、載せたかったのですが見つからないのが残念です。

 

イタリア語も英語も定冠詞がついているのは当然として、フランシスコ版ではそこを「み言葉」と、他の言葉とは違うという意味で訳したのかもしれませんが、なぜ「御言葉」でないのかは私には分かりません。

 

現代日本語訳より圧倒的にかっこいいのが、かつての日本語訳。聖書全体を通して私が感じるのは、神を身近に感じられるのは日本語訳ではないという事。身近ではいけないのかもしれませんが、イタリア語だと、神へ話かけている、問いかけている気持ちになれます。

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Santa Maria del Casale, Brindisi

verbo

は語学を勉強していれば誰でも知っているように「動詞」のことです。英語もverb.

「動詞」と「言葉」が同じとはどういうことか?と中学生頃に思いました。そもそもこの冒頭は旧約聖書の『創世記』の冒頭と同じです。

 

In principio Dio creo` il cielo e la terra.

 

元始(はじめ)に神天地を創造(つくり)たまへり

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ブリンディシ出土の古代ギリシャ作品

イタリア語では両方とも In principio となっているところ1939年日本語訳では、読み方は両方とも「はじめに」なのに、当て字は「元始」から「太初」となっているところがニクいです。

創世記とヨハネの冒頭は両方とも、新たな世界の始まりを表現しているという意味で、運動なのだと思いました。運動とはスポーツのことではありません。動きがあるということは時間が存在するということ。そこから全ては始まった、ということなのだ!と独りごちたのを今でも思い出します。でも「動」が神と共にあった、でないのはやはり古代ギリシャの哲人たちが言う本来のロゴスという言葉の意味が「摂理」宇宙を支配し展開させる一定の調和・統一のある理性的法則(ランダムハウス)とすると、確かに「動」だけではまずい。そのロジック(摂理)を「言葉」に訳した時が、大きなターニングポイントで、多少の意味のズレは生じてもよりキリスト教的になったのだと思えます。「摂理」は極めて抽象的ですが「ことば」は誰にも分かるもの。極めて有能な古代ギリシャの哲人たちの考えは深遠なものですが、それが全ての人の宗教に変わった瞬間ではないか、ヒエロニムスの苦労と偉大さを今更ながら痛感するのでした。

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書斎の聖ヒエロニムス

お分かりのとおり、私は全く宗教学者ではありません。聖書に親しむ一読者として、翻訳の問題に日々ぶち当たっている者として、感じた事を記したまでです。

 

日本語で読む「聖書」は私にはあまり魅力的ではなく、子供の頃は読めませんでした。それ以降も何かしっくり来なかったのに、英語やイタリア語で読むと非常に親しみやすく読むことができました。その逆としては、例えばイタリアで吉本バナナの小説が大変人気を博したのはイタリア語訳が良かったのが大きな要因だと言われています。F.K.ディックの同じ作品も訳が違うとこうも変わるものかと思ったものです。私は、翻訳には語学の知識以外が非常に重要だと思っています。歴史など、その内容に関する深い知識が不可欠。でも当然語学自体をよく知る必要がある。しかも両方の言語を。

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言葉は神と

こんなこと書いていると、じゃ、できないじゃんと思います。そう。だから適当なところで諦めるのが肝心。大体理解できたらそれで良いし、どこか間違ってるかもしれないと分かっていれば良いと思います。一字一句訳せないと進めない人がいますが、それでは永遠に無理なので適当を覚えましょう。分かっている簡単なことだけやっているより、多少わからないけれどだいたいわかる程度で続けていくのが、できるようになる秘訣だと思います。ただ基本文法と最低単語2000程はできるだけ早く身につけたいけど。

 

文の構造は絶対名詞と動詞。神のことば動詞こそ文の骨格。

今日も元気でこもろう!

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