私の本棚のこの辺りにはキリスト教関連のものが並んでいます。入門書のようなものもあれば、本格的なものなど色々です。私はずっと美術史とイタリア史を軸に西洋文化関係の講義をしています。常に結構な数の生徒さん達がいて、大変幸福です。
来月も放送大学で「西洋美術の基礎知識」を受け持ちますが、定員満員の80人に試験をしなくてはならず大変頭を痛めています。なぜなら放送大学の受講者達は、首都大オープンユニヴァーシティと違い、普段全く勉強していない人から、それなりに知識のある人まで極めて差が大きく、とてもやりにくいのです。
私は西洋美術関係しかやりませんが、言語にしろ、文学にしろ、歴史にしろ、芸術だろうとあらゆる場面で、ヨーロッパ文化にはキリスト教が深く関わっています。例え現在、真剣に信仰している人の数は多くはないとはいえ、自然に身についた習慣や、言葉自体にキリスト教から生まれたものが多数あります。日本人がヨーロッパへ観光に行った時にもっとも感動するのは、キリスト教の遺産ではないでしょうか。
旅で感動してもっと知っていれば良かったと思い、受講してくださる方は少なくありませんし、展覧会などの作品解説にも非常に興味を持ってくれるのに、聖書は読まない。全て読めとは言いませんが、新約聖書の「福音書」の一つとか、旧約聖書の冒頭にある「創世記」とかくらい読めるはずです。非常に短いですから。聖書こそ源です。
本棚二段目の「主の祈り」が置いてある辺りは全て聖書です。他にも持っています。イタリア語、英語、日本語も新共同訳や独自に翻訳されたものなど、一口に聖書といっても実はたくさんあるのです。特に中世を勉強するならば、現在の聖書には含まれていない文書も重要です。そういったものは一般向けではありませんから、まず現在の一般的な聖書を手にしてほしいと思います。
写真下段にある緑色の「キリストの光を」のような本はサレジオ会の神父様の著書で、いわゆる教会へ聖書勉強に行くと使われるような類です。入門者向けに書かれていて、あまりに優しいというか、正直にいうと私には大変読み辛い場合が多いのですが、宗教、信仰とは何かを考えさせられるし、こういう説明をするのだということが分かります。例えば上段右の平凡社ライブラリーはよく使うシリーズで、本格的な内容の本が多い有難いシリーズです。中でも上智大学のリーゼンフーバー神父の著書は極めて専門的な内容でいつもお世話になっていますが、神父様のキリスト教講座に出席すると、そこではまるで別人で、幼稚園児に教えるようなやり方と内容でショックを受けました。何十人も集まった人々は、研究したいわけではもちろんないし、信仰を求めているのかもしれませんがついて行けない自分がいます。私の信仰心は欠陥だらけですが、ただ、イタリアの神父様の講義はずっと面白かったのでなぜだろうと思います。相手が日本人だと、つまらなくなってしまうのでしょうか?真面目な日本人は冗談やダブルミーニングが伝わらないので難しい、と先日もルッカの客人たちが言っていました。
文字の表面を読むのではなく、奥底を読むのです。