天使たちの西洋美術

美術、イタリア、読書を愛する西洋美術研究者SSの思ったこと

【本】美しい書物の話:中世の彩飾写本からウィリアム・モリスまで

題名:美しい書物の話 中世の彩飾写本からウィリアム・モリスまで

原題:Fine Books

著者:アラン・G・トマス

訳:小野悦子

出版:1997年(オリジナル1967年)晶文社

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Kells

晶文社は一般向けに文化程度の高い本を沢山出していたので、中学から高校にかけて晶文社の本ばかり読んでいた時期がありました。もちろん当時は小説も沢山読みましたが、だんだんと思想や歴史、様々な分野の解説書などを読み始めた頃です。それは私の読書人生において、専門書の前段階として大変楽しい時期でした。

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この「美しい書物の話」は、かなり専門的な内容ではありますがオタク的な雰囲気はありません。西洋文化の基礎知識、というか書物こそ知識の源泉ですから、その源を知る良い機会を与えてくれます。著者は1927年にロンドンに書店を開き、大英博物館にも彼の編纂するカタログが納められるほどの人物です。高級で内輪な装丁の挿絵本(前回のブログを見てください)を偏愛するようなことは無く、書誌学的な知識が豊富で真に書物を愛する熱意ある人と思います。文章からは暖かい人柄も伝わってきます。

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Durrow

日本では副題までありますが、原題では単に「素敵な本たち」となっているだけです。著者にとってはどの本も素敵で素晴らしいからそうなったのだと思います。でも日本ではもう少し説明が必要だったのでしょう。ただウィリアム・モリスまでではなくもっと後まで語っているのですが。書物が文化にとってどれ程大切なものかを語り、一応年代順に手書き写本から始まります。特に取り上げられているのは「リンデスファーン福音書」で、「ケルズの書」には言及がありますが「ダロウの書」は出てきません。美術史をやっていると、その三つが三大ケルト美術書で、特にダロウは最も古くケルト的と言われています。ただ著者も書いているように、触れられない本は幾らでもあるので仕方のないことですし、逆にこの人の好みが分かる気がします。

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フランス王家の象徴を金箔で押した頁

   「書物を持たない教会は武器を持たない軍隊のようなものだ」
                           聖王ルイ

著者はイギリス人なので当然イギリス人の作家や画家、場所などの比重が大きく、誰でも読めるようにはなっていますが、読者の中心はやはりイギリス人を想定していると思います。最後に「印刷を改善するための現代の運動がイギリスから始まったと主張することが狂信的愛国主義だと思われないことを私は願うのである。(以後表記がない限り「美しい書物の話」からの引用。187頁)」と書いていますが、まさに反知性的な愛国主義が幅をきかせる現代(彼が書いているのは1960年代)、大変知性的な発言に思われます。そして、この本は一部のお金持ちのための豪華本ではなく、文化のための本と言う本来の意味を忘れてはいないので、出版物が対象ですから手書き写本の話は冒頭のみ。七、八世紀のケルトナポリの影響を受けていたり、ケルトの修道士が開いたボッビオ(北イタリアの街)や、ベネディクト会の総本山で「薔薇の名前」のヒントとなった中世の大出版局スビアコを愛する私としては、やはりイタリアこそ文化の源と思ってしまいがちですが・・・。

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初めてスビアコへ行った時に買った本

上の本は私が初めてスビアコへ行った時に買った本です。当時は読めませんでしたが、いつか読もうと思って買っておいて良かった。その後何度かスビアコへ行っていますが、どんどん観光地化されてお土産ばかり増えました。美術旅行でみんなを連れて行った時には、マウリツィオ修道士の案内付きで素晴らしい見学ができ、図書館長様にもご挨拶いただきました。まさに「薔薇の名前」みたいな長身痩躯の図書館長。気の弱そうな優しい修道士が、私たちの案内役の活力修道士に命令されて説明してくださいました。上の本は「マインツからスビアコへ」と書いてあります。グーテンベルクによって活版印刷が盛んになったドイツから、ルネサンスのイタリアへやってきた印刷技術者たちの話です。

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「美しい書物の話」104−5頁

「美しい書物の話」の中心の一つは、活版印刷が発明されて以後の職人的な技術者や、学者的な出版者などにあります。グーテンベルグと出資者フスト、タイポグラファーのペーター・シェイファーに始まり、先のスビアコで活躍したドイツ人スヴェンハイムとパナルツ、初期出版の要だったヴェネツィアに初めて出版社を開いたスパイアのジョンとウェンドリン(彼らはローマ自体活字の生みの親)、フランス王からマインツへ印刷技術を盗むスパイとして送り込まれたニコラ・ジェンソン(彼には、デザイナーにとって最も重要な要素スペーシングという感覚があった。)、そして技術者というより学者であり歴史を通じて彼ほど文化に貢献した人はいないとさえ言われるアルドゥス・マヌテウス(イタリア語ではアルド・マヌーツィオ)が登場します。彼の「ヒュプンエロトマキア」程史上有名な本はありません。彼は王侯貴族のために豪華本を制作するのではなく、良質な内容の本を多くの読者に伝える意思を具現化します。ポケット版サイズ(今の単行本の源)はまさに革新的。下の「ヒュプンエロトマキア」の挿絵は、鑑定家たちが、今までに表現された中で最高に素晴らしいと考えているものです。撮っている時に歪んでしまって本来の単純明快な美しさが損なわれ残念ですが。

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ヒュプンエロトマキアの挿絵

「1455年のグーテンベルク42行聖書」と1499年の「ヒュプンエロトマキア」は同等の、しかも対照的な卓抜さで、インキュナブラの時代の相対する両極から向かい合っている。グーテンベルクの聖書は地味で厳格にドイツ的でゴシック的でキリスト教的で中世的である。一方、「ヒュプンエロトマキア」は晴れやかで優雅にイタリア的で古典的で異教的でルネッサンス的である。この二つは印刷技術の最高傑作であり、人間の努力と欲望の二つの極に立っている。(118頁)

 

インキュナブラとは初期活版印刷で制作された本を指します。

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75頁。シエナの聖カタリーナの肖像画

アルドの素晴らしい功績は幾つもありますが、傾いたイタリック体の発明もそうで、聖女の持つ本と心臓(ハート)の形の中に初めて現れるそうです。それは教皇庁の写字生が使用する、速記できる明瞭な書き方に基づいたものでした。上の聖人カード(スポーツ選手やアイドルのカードのようなもの。中世のアイドルは聖人!)は木版画ですが、木版で挿絵も文字も同時に刷られた時代の説明が続きます。

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120頁から

本の半分を過ぎた頃からイギリスが話の中心になります。上の図は一見して明瞭なように、木版でなく銅版です。18世紀末から19世紀半ばにイギリスで大いに流行ったアクアチント(腐食銅版画)で、ピカレスクな風景画が沢山印刷されました。ピカレスクとはピクチュアからできた言葉で、絵のような風景というか写真のような風景というか難しいところですが、18世紀に支配的だった人工的な理想美(古典風)に対して、荒々しいドラマチックな自然美(ロマン派)を求める感情から生まれた風景画のことです。この本には書いてありませんが、特にグランドツアー(イギリス人等が紳士の教養としてイタリアを数ヶ月から数年ほどかけて旅する)の流行と共に、古代ローマの遺跡と風景を組み合わせて作った「廃墟の美」なども現れます。イギリス人は廃墟好きなんですね。著者も言っているように、イギリスは視覚芸術に関してイタリアはおろか、他の国と比較し劣っているのですが、水彩画には素晴らしい作品や画家がいます。ビクトリア朝の文化が花開く中、イギリス風庭園と共に美しい書物も生まれました。ターナーはあまりにも有名ですがトマス・ガーティン、ジョン・セル・コットマンなどが彫版師として仕事をしました。その中には1825−6年に出た「イギリスのスパイ」などという本もあります。流石007の国です。才能あるプロデューサー、アカーマンは1795年にロンドンに「芸術品の宝庫」という店を出し、家具や装飾品などで大成功しましたが主力商品はアクアチントの版画や書籍でした。「ロンドンの縮図」「ジョージ四世の戴冠式」など世界に冠たるイギリス(現在もその悲しい影響が続いている植民地支配による)を目で見る形にしたものという印象です。ゴシックリバイバルや革命の時代にイギリスは、それまで馬鹿にされてきた文化の無い国から、巨大な文化都市へ大躍進します。そしてそれがウィリアム・モリスを代表とする運動へ繋がってゆくのです。それが大きく分けてこの本の最終段階です。

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Kelmscott Press

ウィリアム・モリスの名前を知らない人でも、どこかで彼の作品を目にしたことがあるかもしれません。余談になりますが、国立(コクリツでなくクニタチ)に銀杏書房という小さな本屋さんがあります。元は一橋大学用に経済関係の洋書を扱うお店でしたが、店先には海外の低価格の絵本やデザイン関連の本が並んでいます。お小遣いで買ったウィリアム・モリスのデザイン集やヴィクトリア朝時代の装飾本で、刺繍したり絵を描いたりしたものです。彼は一般にはデザイナーとして知られています。装飾芸術家として後世に絶大な影響をもたらした人ですが、詩人であり社会運動家であり大変才能に恵まれた人でした。ラファエル 前派の人たちとも交友がありますが、彼らよりずっと新しく芸術家という枠には収まらない人です。私はモリスが大好きですが、それは単に彼のデザインが美しいだけでなく彼の思想が純粋で美しいからです。産業革命ですっかり醜くなった(この本の著者もそう見ています)ロンドンやイギリスの街町から生み出される大量の商品は、著しく質を落としていました。印刷も然り。モリスは産業革命の負の面から、手仕事の価値を見直します。彼の理想は中世の手仕事にあったので、写本を多く研究し自らの出版社を作りました。それがケルムスコット・プレスです。彼にはバーン・ジョーンズというオックスフォードで共に学び生涯親友だった画家がいました。ジョーンズは後期ラファエル前派の代表的な画家でもあります。ジョーンズの挿絵、エマリー・ウォーカーというプライヴェート・プレス(私的出版社とでもいうのだろうか)の立役者らの力を借り、自らは新たな美しいローマン体活字を編み出しました。彼が最初に印刷すると決めていたのは中世最大のベストセラー「黄金伝説」(聖人たちの生涯を綴った伝説集)だったので、そこからモリスの活字をゴールデン・タイプと言います。

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Nowhere

上はモリスの小説「どこにも無い場所」(日本では「ユートピアだより」という訳)です。 これは22世紀のロンドンを描いたもので、彼がSFファンタジー小説の父と言われる所以です。モリスの理想とした社会主義革命が達成されたロンドンでは、ヘドロ状態だったテムズ川は澄み渡り、機械の一部と化していた人々は喜び勇んで労働し、彼らが住んでいる家はアーツ・アンド・クラフト(工芸美術)運動によって生み出された、職人の暖かく美しい家具で満たされているのです。22世紀がすぐそこに迫った今、私たちは世界はモリスとは正反対の方向へ突き進んでいるのを実感せざるを得ません。精力的な彼も病気には勝てず、情熱的なモリスの仕事と思想をになったケルムスコット・プレスは終わりを迎えますが、彼の影響は多くのプライベート・プレスを産みました。その一つがアーツ・アンド・クラフトという言葉を創始したコブデン=サンダスンのダブス・プレスです。サンダスンは法廷弁護士として成功してたにも関わらずモリスのような工芸の人になったのでした。モリスと違って心の狭い人だったみたいな挿話があります。それは死んだ後に自分の活字一式を誰にも使わせないために、テムズ川に投げ込んだというのです。しかも本当なら死後はエマリー・ウォーカーのものになるはずだったのに・・。でも同じことをした人が他にもいました。バルビゾン派で最高の画家(と私は思う)カミーユピサロの息子ルシアンが活躍したエラニイ・プレスの創始者リケッツ、彼もテムズ川に活字の母型などを投げ込んだのです。テムズには愛憎渦巻く歴史が詰まっています。

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T.J.Cobden Sanderson, 1902

ケルムスコットが余りにも手の込んだ美しい観る本を作ったのに対して、サンダスンのダブス・プレスはハイセンスな読み物です。「創世記」の冒頭 " In the biginning " (はじめに・・)が、無駄の無い、しかしよく考えられたデザインに現れています。こうすることで言葉の持つ力強さやリズムまでが印象に残るのでは無いでしょうか。

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1903-5年に製作されたダブス聖書

イギリス中に文房具のチェーン店を展開するホーンビイが作ったアシェンデン・プレスのセミ・ローマン体は、ベネディクト会の総本山、スビアコという名前です。彼が最初の活字職人たちを研究したのがよく理解できます。

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ティーブン・グッテンのデザイン

プライヴェート・プレスを革新したのがナンサッチ・プレスです。「タイムズ」のタイポグラフィーを見たことが無い人は珍しいのでは無いでしょうか。そのモリスンとメイネルによるこの出版社は、機会を上手く利用し圧倒的に部数を伸ばしました。もちろんグッテンのような才能ある画家の挿絵も重要です。メイネルは「作品の意義、版の美しさ、適切な価格」を重要視し成功したのです。それら全ては現代の資本主義が忘れ去ったもの。ナンサッチ・プレスの傑作はダンテの「神曲」でボッティチェッリの挿絵が入っています。

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元ヴァチカン図書館

最後はアメリカのプライベート・プレスの紹介で終わります。多分彫刻師や出版業者の名前などほとんどの人には、覚える意味はないでしょう。でも人間と文化と社会との関係を考えることのできる本にもなっています。私は素晴らしい本だと、思いました。図書館や古書などで是非読んで欲しいと思います。 

 

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