題名:隠されたヨーロッパの血の歴史
副題:ミケランジェロとメディチ家の裏側
著者:福島隆彦
う〜ん、普段全く読まない類の本で、数行読んでビックリしちゃった。こんなメチャクチャな・・・で、著者を検索したらトンデモ本の中でも最高のとんでも本大賞を受賞しているような人だった。これも表現の自由の難しさだな〜っと。でもすごく宣伝されているし、ファンがいてこの本も購入者からは支持されているのが分かって、民主主義の難しさを感じる。もっと難しいのは、中々良い事言ってたりして、そうだそうだと共感できる部分もあったりする。右翼的なのに左翼を公言してる。
どっちにしろ思索より行動の人なのは明確で、何冊も書いてます。
社会運動もアカデミックな学会も両方知ってると、熟考と行動について考えさせられる。要するに、歴史や思想などを理解するには、非常に多くの知識が必要、しかもそれは多角的、総合的にとらえる視点が必要。さらにある事実を普遍化することはできず、ある歴史には必ずその時固有の偶然も絡んでくるもので、単純に言い切れば必ず無理が出る。だから論文をたくさん発表しようとすると極限定的な内容に絞って、資料偏重でつまらないものを量産することになる。今の学会がこういう傾向にあるのは、誤った内容をできるだけ避けようとする態度もあるからで、それは当然正しいとは思う。でも昔の学者はもっと思想的で壮大な内容を発表したから、ずっと感動的で面白いものが書けた。今ではそれは勘違いだったりするのが証明されたりもしているけど。
特に経済学や社会運動系の思想などを研究している人は、実社会でそれがどれだけ役に立つかという点と切り離せないけれど、真剣に考えれば考えるほど問題は複雑で行動が取れなくなるのに対して、そんなことをしているから学者は役立たずだという人たちが出てくる。で、そういう人たちはさまざまな行動に出るんだけれど、研究者から見れば、そんな単純で乱暴な方法でいいのかと疑問を持ってしまう。
だけど、編集者に言われて、初めてちょこっとフィレンツェに行ったような人に、ルネサンスとミケランジェロの真実を観切った!!とか言われちゃうと、真面目に長年研究してる人がいるのにあまりに不真面目だと思う。でも考えてみると日本のテレビってそういう人で満ち満ちてる。その話題なら、専門家がいくらでもいると思うのに、無知な芸能人の内容のないおしゃべりに終始する。スポーツだって欧米なら、普段からそのスポーツに特化したプロの記者が解説したり質問するのに、日本では試合の内容や技には無関心な素人記者が、無理矢理ありがとうって言わせようとする。私はスポーツが好きなので、泣き顔が見たいわけじゃありません。選手に失礼だ。そういう人だって少なくないと思う。
真実はいつも複雑で難しく、見極めることは人間には不可能だ。単純化したものは大勢に、直接的に訴えるし、やはり、その歴史や思想に何かしら意味を見出したいと、私も思ってしまう。